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2008年 12月 15日
こんばんは。
最近、咳が結構出るんですよね。もう血でも吐くんじゃないか、ってぐらいに。いや、まあ僕が死んでも誰も困らないので別にどうでもいい話ですけど。某有名アニメのヒロインは、死んでも代わりが居るそうですが、僕の場合、死んでも代わりは要らない、でしょうね。 あ、ちなみに今日の内容は鬱になりそうな内容ですね。死について何か書こうとすると毎回この様ですよ。ああ、とことん陰気な奴ですね……。 なので引き返すなら今のうちですよ。気分が悪くなった云々の苦情は一切受け付けませんから。 とりあえず今回は読み返してみたら、酷い自己嫌悪に陥っているとしか思えない文章になっていたので注意書きをしておきます。一応、読んでる人が居るらしいのでね。 死に様。高橋紹運や赤穂浪士などの死に方って格好いいですよね。主の為に果てる――それだけのことなのに昔はよく憧れたものです。 格好いい死に方の場合どうしても自己犠牲が思い浮かびますが、では理想の死に方はどうなのでしょうか? 多くの人は先に挙げた自己犠牲論――誰かを庇って死後も英雄的扱いを受けるような死に様。または大往生――幸せな人生を全うし、老衰に任せて苦しまずに逝く。 たぶんこの二つが圧倒的多数を占めるのでしょう。 まあ僕の場合万人とは違いますけど。 ま、結論ありきで書くなら、僕の理想の死に方は『自殺』ですね。 個人的に自己犠牲論を格好いいとは思います。自己犠牲を否定するつもりはありません。 ただ自分がそうなった場合、どうしても違和感が拭えないんです。死後に賛美でもされようものなら、「僕はそんな立派な人間じゃないよ」と教えてあげたくなるんです。何だか嘘を言ったみたいに申し訳なくなってしまいます。 ちなみに大往生は僕なんかじゃなく、もっと幸せに生きてる人々の為の死に方ですからね。僕みたいに危ない橋ばかりを好んで渡るような人には無縁ですから。 さて、何故僕が理想の死に様に自殺を挙げているか――それは『僕がこの世に必要ないことを証明したいから』でしょうね。 生きる意味、死ぬ意味――それはこの世には存在しない。以前にもそんなことを書いたと思います。ただ、何となくそれを証明したいんです。 例えば僕が死んだとして、家族は一応悲しむでしょう。知り合いも何人かは葬儀に来てくれるかもしれません。 けれど、世界は変わらずに回ってます。僕に関わっていた人も一日、一週間、一ヶ月と時を経るに連れて僕の居ない世界に順応して何事もなかったかのように日常を送るはずです。 結局、『僕の居る世界≒僕の居ない世界』なんですよ。これが結論です。 そして不必要なモノはさっさと消すべきです。僕一人が消えることによって違う誰かが明日を迎えられるかもしれません。呼吸による二酸化炭素も減りますし、食料も一人分余ることになりますから。 そうして消えてしまった後、誰も僕を思い起こすことなく、あるいは鬱陶しい奴が消えたと思ってくれれば――変わらない世界をぼんやりと眺めて、僕という存在が必要なくて何も背負わなくてよくなれば――それだけで僕は満足できそうです。 ま、この話矛盾だらけなのですけどね。 死んだ後に満足できるかどうかを確認するわけですから、霊魂云々は置いておくとしても死ぬ時の理想の死に方としてはおかしいです。 つまりは、以前にも書いた死の免罪符って奴ですね。死ぬことが許されているのかどうか、死んで確かめてみたい。そんな内容です。 と、色々思想的な話を書き、内容も小難しく煙に巻くような仕上がりですが――僕の理想の死に方が自殺ってのは本当ですよ。 事故死や他殺のように命を奪わせる気も背負わせるつもりもなく、大往生のように運命に身を任せるのもごめんです。それに長生きすれば悲しませる人を増やすことに……いや、恨まれる人を増やすだけか。 僕の死に方は僕が決めます。僕が唯一心の底から嫌いになれた人間の最後は僕が殺りますから。それが唯一、僕の理想の死に方ですね。 あるいは……これが人が最初に与えられて最後に行使する権利なのかもしれませんね。
by naoya0320
| 2008-12-15 21:31
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